Live at Washington Coliseum, 1964契約の神聖さ 住友信託 vs. UFJ銀行 (信山社双書 実際編) /石黒 一憲 (著)

December 02, 2010

Playing managerねえ

今の職場は所帯が小さいこともあり、責任者ではあるが、実態としては、純粋なManagerというよりもPlaying Manager(Prayingだったらイヤだ)という感じになっている。個人的には、別に嫌いではない。ただ、本業はManagerということを忘れないようにしようとは思っている(どこまでそれが実践できているかはさておき)。

Twitter上で、時間単価を考えれば、ManagerがPlayerをするのは、無駄だし、下にいる人の成長機会を奪うことになるので、その意味でも無駄でしかない、というような批判が流れていて、なるほどと思うと同時に、そうかな、という違和感を感じた。

僕だって下に人がいないわけではないし、自分でやっていることについて、下の人がやる機会を奪うことになりかねないということは理解している。Playing Managerをやっている人は誰でもそういうことは、大なり小なり気づいているのではないだろうか。

下の人の手持ちの仕事量を考えると仕事を振り切れないということもあるだろう。何でもかんでも振って下が倒れてしまうようでは問題外というか、Manager失格といわれても仕方がないような気がする。Manageできていないんだから。仕事量に対して人数不足ということもあるかもしれない。もう一方で、能力的にキツそうで、振ってもできそうにないということだって、ありうるだろう。そういうことから下に人がいても振れないということがあり得るだろう。成果についての責任ということからすれば、そういう状況下で下に振るのは、難しいように思われる。

そういうことを何とか解消するのがManagerだという批判はありうると思うが、それは、今日言って明日できるものではないのではかろうか。Managerといっても、経営層以外にはそれを短期間で何とかする権限とリソースがないのが通常だろう(少なくとも日本の企業では)。となると、問題点は理解していても、回避する方法がないということになるのではないだろうか。回避可能性のないところで、批判だけされても、仮に、その批判がどんなに正しくても、批判された側からすれば、スルーする以外に何もできない結果になってしまう。それに何の意味があるのか、正直よく分からない。


…わかっちゃいるけどやめられない…。「スーダラ節」か。


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dtk1970 at 23:32│Comments(0)TrackBack(0)転職/仕事 

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